誰が知っていただろう。
少なくとも僕は思いもしなかった。
例えば物は壊れるように。
食品に賞味期限があるように。
毒にも使用期限があるだなんて。
毒なんていらない。
これがなければ僕の人生は平穏だったのに。
美食屋四天王だなんて呼ばれる事もなく、ただ静かに一般人として暮らしていける筈だった。
そう願ったのは一度や二度じゃない。
庭の研究施設で新たな毒を立て続けに入れられて、僕はどんどん強い毒性を持つ人間になった。
けれど、庭を出てからは一度たりとも積極的に毒を取り込んだ事などない。
使わない機能は失われていく。
抗体だって一度作っても消えてしまう事もある。
なのに、使わない毒が身体から消えていく。
そんな可能性を僕は考えた事もなかった。
望んでいた筈だ。
喜んでいい。
なのにどうしてこんなに身体が震えるのか。
どうして涙が止まらない?
「ココさん?どうしたんですか・・・?」
心配そうに触れてくる小松くん。
そう、僕はこんなに動揺しているのに、小松くんに触れられても毒が滲まない。
最初はそれは良い事だと思っていた。
僕のコントロールが完璧に出来ているんだと思っていた。
けれど。
僕を構成しているのは、毒だった。
毒があるから、今の僕になった。
毒がなくなったら、今の僕じゃいられないんじゃないか?
今の関係も維持出来ないんじゃないか?
美食という事を介して知り合った料理人に、美食屋としてもう使えないような自分がどれほど小松の役に立てるのだろう?
トリコと小松くんはよく一緒にハントに行くが、占い師をしているボクにも時折、声がかかる。
それはボクの特殊な体質を当てにしている事が殆どだ。
知識も当てにされる事もあるけど、それなら口頭で伝えるだけで十分。
わざわざ同行する事もない。
毒性の強い場所に行くとか、迂闊に触れると毒に侵される動物のハントだとか。
必要と感じた時にトリコはボクに声をかける。
そうでなければ二人でハントに行けば良いだけの話なのだから。
なんとか繋いでいる僕の関係。
僕が変わってしまったら、小松くんも変わらざるを得ないんじゃないか・・・?
「ボクに触らないで・・・」
そう伝えるも、小松くんの手を振り払う事は出来ない。
「毒は出てないし、大丈夫ですよ?」
ぎゅ、っと小松くんが抱きついてきた。
そう、毒は出ない。
出なくなったんだ。
震える体は止まる事を知らない。
こんなにぎゅっと抱きしめられても、安心感より恐怖が先立つ。
小松くんを意図せず害する恐怖ではない。
トリコや小松くんの知る僕が崩れていく恐怖。
抱きしめられたその力でぐずぐずと崩れてしまいそう。
「何が怖いのかボクには分かりませんが、大丈夫ですよ。ココさんにはトリコさんやサニーさんが付いています。勿論、ボクも」
抱きしめられたまま背中を撫でられるが、ボクの震えは一向に収まる気配はない。
役に立たなくなった僕でも傍にいてくれる?ハントに行けなくなった僕でも会いに来てくれるのかい?
そう口にする事も躊躇ってしまう。
「もう、駄目だよ・・・」
小松くんじゃボクを救えない。
今のボクに必要なのは・・・必要なのは?
一瞬研究所を思い浮かべて、さっき以上に身体が震えた。
嫌だ・・!
嫌だ!
自分の身体から毒が消えていく事を恐怖する気持ちと、研究所に戻りたくない気持ちが相反する。
それでも身体から毒が滲む事はなくて。
「・・・さんっ!ココさん!!!」
肩を揺すぶられて、ボクははっと自分を覗きこむ小松くんを見た。
「何が駄目で、何が怖くて、どうして触っちゃいけないのか。ちゃんと説明してくれなきゃ分からないですよ?」
真摯な眼で見つめられ、ボクは諦めてぽつぽつと語り始めた。
「毒?出せないんですか?」
「いや…意識すれば出せるよ。種類は少ないけれど」
指先に意識を集中させれば、じわりと手が赤く染まった。
「じゃあデビルオロチの毒に対する抗体なんかが作れないんですか?」
「いや…作ろうと思えば作れ無くはないだろうけど…外部からの毒の摂取がないと何とも…」
危害を加えられれば、身体が防御反応を起こす。
毒の抽入には血清を。
敵に襲われれば猛毒を。
これでも自分をコントロールする事には人より長けているつもりだ。
今でもデビルオロチの抗体は持っているし、作ろうと思えば作れる。
けれどそれは最近入れられた毒だからであって、十年後、二十年後は分からないのだ。
実際、昔に入れられた毒に対する抗体は、今己の身体にはないものもある。
今は美食屋を引退した身。
そしてキッス以外は誰も来れない場所に一人暮らしだ。
外部から毒を入れられる可能性も、敵に襲われる可能性も極端に少ない。
平和ボケした身体が毒性を失ってしまうのも、理解できる話。
「ええと…それで何が問題なんですか?」
全てを話し終えても、小松くんはきょとんと首を傾げながら聞いてきた。
「だから毒が出なくなったんだ!今は完全に出ないって訳じゃないけど、出せる毒の種類は確実に少なくなっている」
「ボクからすれば気兼ねなくココさんに触れられるから嬉しいですよ?」
そ、そりゃ、小松くんに触れられるのは嫌いじゃない、むしろ嬉しいくらいだけど・・・
「でも君の役には立てなくなる…」
「役に立つ?なんです、それ」
ムッと小松くんが眉をしかめた。
どうやら小松くんのお気に召さない言葉を言ってしまったらしい。
「だから、ハントで君を守ったり…」
「馬鹿な事いわないで下さいっ!何ですかそれっ!ボク、自分の役に立ってくれるからココさんと仲良くしてる訳じゃないですよっ!」
「でも…」
「でもじゃありませんっ!怒りますよ!?」
バチーン!
言うが早いか小松くんはボクの頬をひっぱたいた。
いや、叩いたその手でボクの頬を両側から挟み込む。
「こ…こまひゅふん…」
変な顔で変な発音をするボクに思わず小松くんの口元が弛む。
きっとものすごく変な顔になっているに違いない。
それでも小松くんはボクの頬から手を離さず、笑いそうになる口元を引き締めた。
「いいですか、ココさん。僕はそりゃ弱いですし、ココさんにしたら保護対象かもしれません。けど、僕はココさんに守って欲しいと望んだ事が一度でもありましたか?」
小松くんの言葉を聞いて、徐々に血の気が引いていく。
「…僕は、最初から小松くんに何一つ望まれてなかった…?」
次いでボクは顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
少しでも自分をアテにされていると思っていたなんて、とんだ自惚れだった訳だ。
「あーもうっ!ややこしい人だなー!」
言葉の通じなさに小松くんは頭を抱えたそうにしていたが、生憎小松くんの両手はボクの頬を抑えるのに使っている。
彼には今、僕から手を離すという選択肢は無いらしい。
代わりとばかりにグイグイ頬を押し潰された。
「いいですか、ココさん!僕は最初こそフグ鯨を捌ける人だと思ってココさんをアテにしていました!けれど今は違います。こんな事を言っちゃおこがましいかと思ってたんで今まで言えなかったんですけど、僕はココさんを友達と思ってます!」
「トモ、ダチ?」
小松くんの頬が真っ赤に染まった。
「別に馴々しくしようとかそんなんじゃなくてっ、そのっ、だから、ただの知り合いよりは親しいと言うかっ」
言葉を探してあーとかうーとか唸る。
「とにかく、僕はココさんの毒が出なくても、ココさんが僕を守るつもりがなくても全然構わないんですっ」
ただ友達だから。
守ってくれるから友達なんじゃない。
友達だからこそ守りたいと思うんだ。
「でも…僕は守りたいよ…小松くんのピンチにじっとなんかしてられない」
だが、今のボクでは力不足は否めない。
「それはそれで有難いんですけど、僕がココさんを友達と思うのはそれが理由なんかじゃありません」
「じゃあ何?君にとっての僕の存在価値はどこにあるの?」
最初にアテにされていたフグ鯨でさえ、小松くんは自分で捌けるようになってしまったし、次の産卵期は十年後だ。
「そんな理由、ボクがココさんを好き。それだけで充分ですっ!」
きっぱりと小松くんは言い切った。
「でも…」
「でもも何もありませんっ!ココさんはボクを守ってくれると言いましたが、じゃあココさんのメリットって何ですか?ボクなんてハントには足手まといだし、ココさんの占いに役に立つ訳でもない、ただ声が大きくて品のない図々しいだけの男じゃないですか」
「そんな事ないよっ!小松くんは…」
「ボクは?」
小松くんの瞳は強い。
けれど、その強さの中に少しだけ不安が見える。
小松くんがそんな不安を覚える事はちっともない。
だって・・・
「小松くんは、居てくれるだけで良いんだ」
居てくれるだけでボクを救ってくれる存在。
存在するだけで価値がある。
「役に立たなくても?」
「そんなことない。君が傍に居てくれるだけで、いや、遠くででも元気にしててくれるだけで…僕は安心するし、嬉しいんだ…」
君の無事くらいは離れていても占える。
「会えなくても?」
「そりゃ、会えた方が嬉しいけど、小松くんには仕事があるし、しょっちゅうハントに出掛けちゃうし…注意力散漫なくせに度胸だけは人一倍あるから・・・」
「うっ!・・・ううっ!」
僕の一言一言に小松くんが胸を刺されたように眉を顰める。
「だから、会えなくても元気でいてくれるだけでもう僕は満足なんだ…」
傍に居なくても良い。
けど、小松くんには元気で居て欲しい。
だから小松くんがピンチに陥った時、ボクは何を置いても小松くんを助けたい。
「欲がないんですねぇ…ねぇ、ココさん。ボクは違いますよ。もっと欲深なんです。興味をそそられれば危険なハントにも実力なんか伴わなくても着いて行っちゃいますし、友達や好きな人には会いたいと思います…だからねぇ、ココさん。毒が出なくなったなんてつまらない理由でボクを遠ざけないで下さい」
「つまらない?」
「少なくとも、ボクにとっては」
「本当に?こんな僕でも良いのかい?」
毒の出ない、君を守れない弱いボクでも?
「ココさんこそ。こんな何も出来ないボクで良いんですか?」
小松くんは何も出来なくなんてない。
「小松くんは充分僕を救ってくれてるよ…」
さっきからずっと離される事なく触れてるぬくもり。
ほら、もうこんなにボクは救われている。
小松くんの手に自分の手を重ね、ボクは静かに涙を流した。