星ひとつ見えない深淵の暗闇の中を小松は恐る恐る歩いていた。
「トリコさぁ~ん・・・・」
不安そうな声で囁く。
あまり大声をだすのは憚られた。
小松の聞きなれた人々の喧噪や車のクラクションは一切聞こえない。
僅かに虫の音が聞こえるくらいだ。
いや、確実に近くにいるだろう人の気配。
だが体温を感じられる程近くはない。
小松が手を伸ばして届く範囲にいてくれたら、小松もここまで不安にならなくて済んだだろうに。
せめて呼吸音でも聞こえないかと耳を澄ませてみたが、何も感じられない。
完全に闇に同化してしまったかのようだ。
小松には何も見えない。
遠くからの微かな虫の音など、何の助けにもならない。
「ぐっ!」
急に固いもので胸を突かれ、へなへなと小松は座り込んだ。
いや、突かれたのではなく自らぶつかったのだ、とはしゃがんだ後で気づいたのだが。
だがいつまでもその場でじっとしている訳にもいかない。
危機感と、何より焦燥感に駆られながら立ち上がる。
小松は痛むあばら骨を庇いながら、恐る恐る暗闇の中に両手を伸ばしつつ、慎重に歩を進めた。
ぺたり
両手が何かの感触を伝える。
木のような硬さはない。いや、でも硬い事は硬いか・・・?
自分が何に触れたか分からず、確認する為にそっと手を左右に這わせる。
歪な円筒形、だろうか?
徐々に両手を広げていくと、小松の両手でぎりぎり回りきるかどうかというところだ。
ここにそんなものがあっただろうか?
今度は左右ではなく上下に手を這わせ・・・
「何してるんだい?」
「みぎゃああああ!!」
唐突に降ってきた声と浮いた身体に、小松は奇妙な叫び声を上げた。
ハッと気づき慌てて両手で口を押さえる。
「・・・そんな事をしても無駄だと思うけど」
呆れた声は、いつもより随分と近くから発せられたようだ。
何も見えない事に変わりはないが、しっかりと回された腕の感触、体温、匂い、声は全て身に覚えのあるものだ。
ココに抱きあげられている。
「ココさぁん・・・」
ホッとして小松は息を吐いた。
「っていうか!ココさんだったなら声かけて下さいよぉっ!!」
先ほどまで触れていたのがココの腰回りだと気づいた小松が思わず叫ぶ。
「っとぁっ・・・!」
気づいて再び手で口を押さえたが、そこまで気にしなくてもトリコが目を覚ます様子もないのは、暗闇でも見えるココにとっては明らかだ。
「だって小松君、ボクの事は呼ばなかったし」
「・・・居るとは思わなかったので・・・」
ばつが悪そうにボソリと小松は告げた。
「ここはトリコじゃなく、ボクの家なんだけど?」
「ですから、こっちの部屋じゃなく自室で寝ているんだとばかり・・・」
昨日は予想していたハントが思った以上に早く終わり、近くだから、とココの家を二人で訪れた。
話が弾み、帰る列車を逃してしまった時に、雑魚寝で良ければ、とココの家に泊めてもらったのだ。
もともと野宿の予定だった二人はそれで十分、とココの言葉に甘えた。
だが小松は知らなかった。
以前は一時的に訪れただけの断崖絶壁のココの家。
そう、常人が訪れる事の出来ない隔離された場所。
水道もガスも電気も通っている訳がなかったのだ。
随分不便な家に住んでいるものだ。
其の事に気付いたのは、日が沈みかけ部屋が薄暗くなってきてからの事だった。
「お風呂や生活用水はどうしているんですか!?」
「占いの館の方にあるし、こっちには崖の下に湧水が溜まってできた泉があるよ」
飲み水もそこの湧水を瓶に入れて上まで持ってきているのだと言う。
「じゃ、料理は!?」
「竈で薪を焚いているよ」
確かに訪れた時、煙突から煙が上がっていたのを思い出す。
森の中なら、薪に困る事はないだろう。
「電気は!?」
「冷蔵庫代わりの氷室があるし、基本は常温で長期保存出来るものが多いから特に困らないよ。テレビがなくても占いで情報は得られるしね。」
「でも、明かりがないでしょう?」
「ボクは目が良いから」
「・・・そうでした・・・」
視力10.0なんて事だけでなく錐体細胞が異常に発達しているココは、洞窟内でも昼間のように明るく見えるという。
他人が来る事を想定していない作りのこの家では、明かりなど必要ではないのだろう。
それでも起きている時は、ココは占いの演出で使うという蝋燭を何本かつけていてくれた。
トリコなら嗅覚で大体は把握できるらしいので、それは完全に小松の為のものだ。
だが、寝る時には不要なものなので消した。
周りに民家もネオンもない場所がこんなに真っ暗だとは知らなかった。
曇っているのか、窓からわずかな月明かりさえない。
小松を戸惑わせるのは十分だった。
「で、小松君はどうしてこんな真っ暗な中うろついているの?お腹でも空いた?」
「トリコさんじゃあるまいし!僕はただトイレに行きたいだけです。でも全然見えなくて・・・」
「あぁ、それは悪かったね。夜中に小松君がトイレに起きるなんて事想像してなかったよ」
「う・・・すみません・・・」
どうして蝋燭を消す前に行っておかなかったのか、と言外に責められているような気がして、小松は小さく謝った。
「あ・・・もしかして僕がうろうろするからココさんを起こしちゃいましたか?」
唯でさえ人を避けて暮らすココだ。
例え隣室とは言え、近くに人の気配があると早々熟睡出来ないのかもしれない。
まして、その気配が物音をさせながら動き回っているのだから。
「あれ、キミにしては鋭いね・・・なんて、冗談だよ。僕はただ水が飲みたくなっただけだから。ちょっと小松君が面白い事してたから眺めてたけど」
「いつから!?」
「そう言えば胸のあたりテーブルにぶつけてたよね、大丈夫?」
「いやだからいつから!?・・・ってトリコさんの名前呼んでる辺りからだったらかなり時間経ってますけど!!」
「ふふ・・・」
答えないという事は、下手をするともっと前から見られていたのかもしれない。
起こさないようにと気配を絶っていたなら、声をかけてくれれば良かったのに。
ぽっと柔らかい明かりがココの顔を浮かび上がらせる。
ココが見えない小松の為に蝋燭をつけてくれたのだ。
「ありがとうございます、ココさん」
アロマキャンドルなのか、仄かな香りが漂う。
「場所は分かるよね?」
「はい!」
小松はココから渡された蝋燭を手にトイレに行く事が出来た。
「おかえり。お茶を入れようと思うんだけど、小松くんも飲むかい?」
少し離れたキッチンで、炎の明かりが見える。
そこに立つ黒い影。
小松にはココの顔までは判別出来なかった。
暖かくなってきたとは言え、まだ夜は冷える。
「良いんですか?ありがとうございます」
「いや、ついでだから」
ついでと言うが最初は水を飲むと言っていたから、もしかしたら小松の為にわざわざ入れてくれるのかもしれない。
しばらく待つと、シュンシュンと薬缶が静かな音を立てる。
ココはいくつかの茶葉を選ぶと、お盆にティーカップやポットを乗せて持ってきた。
既にティーカップは暖まっている。
用意したポットにお湯を注ぐ。
ふわり、と良い香りが小松の鼻を擽った。
ココが用意していたのはハーブティだった。
「良い香りですね・・・」
「ふふ。このハーブティには疲れた体を癒す効果と、穏やかな眠りに誘うリラックス効果があるから。どうぞ、小松くん」
夜中に目が覚めた小松を気遣っての事だろう。
ティーカップを差し出され、小松はテーブルの上に蝋燭を置いた。
いつもはテーブルを挟んで向かい合わせに座るが、今ばかりはココの隣に腰を下ろす。
「小松くん?」
「すみません・・・見えないので・・・」
ココにとってはいつもと変わらない風景でも、小松にとっては蝋燭一本だけの視界はかなりの制限を受けてしまう。
「そうだったね。けれど僕はよく見えるから・・・」
ココはソーサーを自分の横に置くと、一度立ち上がった。
喋るのにはちゃんと顔を見て喋りたいと思ったが、ココには迷惑だっただろうか?
追いかける事も出来ず、視界から消えたココを想う。
手の中にあるカップはとても温かい。
けれど、暗闇の中で一人。
それはとても寂しい事だ。
「小松くん」
「あっ、はい!」
声をかけられそちらを振り仰げば、ふわり、と柔らかい感触。
ココが小松に毛布を掛けてくれた。
「飲み物だけ温かくても、ね。まだ夜は冷えるから」
そう言ってココは元の椅子に腰かけた。
小松の、隣に。
気のせいか、さっきよりも距離が近くなっている気がする。
ココが離れたのは自分を気遣っての行動だったのだと分かってしまうと、小松の寒さや寂しさは吹っ飛んでしまった。
ココは優しい。
既に小松はほこほこと温かい。
それは何も、毛布やハーブティだけのせいではない。
自分ばかり温かくしてもらっている気がする。
急に押し掛けて泊まらせてもらって、迷惑ばかりかけていると思うのに。
自分に出来ることは何かないだろうか?
そう思っても、なんでも出来てしまうココに返せるものが思い浮かばない。
せめて、と小松は一度カップを置くと、椅子をココの座るそれとぴたりとくっつけた。
「ココさんも寒いでしょう?」
そう言って、かけてもらった毛布をココの膝の方へと伸ばす。
「・・・ありがとう」
ふんわりとココは笑った。
「い、いえっ!」
小松は慌てて手元のカップを引き寄せ、啜った。
おかしいかな、ココも温かくしてあげようと思った筈なのに、実際には自分が更に温かくなってしまった気がする。
ココの顔を直視出来ないほどドキドキしてしまったが、リラックス効果のあるハーブティのおかげか、少しずつ落ち着いてきた。
蝋燭の明かりが灯す、仄かな明かり。
いつもより落とす声のトーン。
それでも夜だから、声は響いて。
更に声を小さくすれば、どこか睦言のような囁きにも似る。
いつもより近い距離。
椅子をぴったりくっつけて、二人で纏う毛布。
分け合う体温。
「このハーブティ、とても美味しいです」
「それは良かった」
見上げればココが頬笑み返してくれる。
嬉しくて小松も笑顔になる。
それは、とても温かい。
夜だから。
暗いから。
寒いから。
寝ている者を起こしてしまうから。
今はまだ、理由をつけなければこんな事は出来ないけれど。
いつか、自然に二人でいられたら。
今のように、お互いがお互いを温められたら。
ココが傍にいる事を許してくれるなら。
小松が時間を作って遊びにきてくれたら。
こんな風に幸せで、温かな気持ちがいつまでも続くだろう。
「・・・器用だな」
朝、腹を空かせて起きたトリコは、硬い椅子で寄り添って眠る二人を見てそう呟いた。
* * *
ココの家って断崖絶壁だし、家の材料はキッスが運んだとしても、水道ガス電気のライフラインはどうなっているんだろう・・・?と妄想して、外に電柱なかったし、あの岩の中を水道管やガス管が通ってるようにも見えない・・・よし、ない!と結論づけました。
でもそうすると小松と××した後とか大変だよなー・・・
ちなみに星も見えないくらい真っ暗だったのは、キッスが窓の外に居座っていたからという描写を入れ忘れてました。まぁ良いか。