「ふうっ…」
夕方になり日も落ちかけた頃、ようやくココは教会に戻ってきた。
手には持っていったグルメケースのみ。
何の収穫も無かった事が更にココの疲れを助長させる。
いや、収穫があってもそれはそれで困るのだが、少なくともあれば取るべき行動の方向性は立つ。
今後も情報を探りつつ、折りを見て探索に行くしかないと結論づけた。
それにしても思っていた以上に遅くなってしまった。
小松は朝も帰らない筈だから、昼に戻れば問題ないと思っていた。
しかし東の森は奥深くに足を踏み入れれば入れる程迷路のように入り組んでいる。
今を逃せば暫くは来れないと思い、つい深入りしてしまった。
「小松くん、いるかい…?」
戻ってきた教会に人の気配はない。
キッチンに顔を出せば、食事が用意してあった。
どうやら一度戻ってきたものの、ココがいないので食事の準備だけしてまた出かけたらしい。
メモが残っていて宿屋に居る旨が示されていた。
もう日は暮れかけている。
小松がいつも出かけている時間なのだ。
キッチンに持ち帰ったグルメケースを置くと、ココは風呂に入り着替えた。
せっかく準備してくれた小松には悪いが、夜通し歩いていた為、空腹より睡眠欲が先に立つ。
一眠りしてから食事をしても遅くないだろう。
小松はいないがベッドではなく、ココはいつものリクライニングチェアに腰を下ろした。
癖のようなものだ。
疲れていたのか、すぐに眠気が襲ってくる。
誘惑に逆らわずにココは目を閉じた。
「ん・・・」
不意に何かの気配を感じ、ココは薄く眼を開けた。
今は何時だろう?
帰ってきたのが夕方だったからか、ひと眠りすれば既に周囲は真っ暗だった。
まぁ、それでもココには問題なく見えるレベルではあるが。
すっと音もなく入ってくる影。
小柄なそれは当然ながら身に覚えがある。
だがその迷いない足取りに逆にココは不振を募らせた。
小松が大人しい。
それは百歩譲ってココが寝入っているからだとしよう。
しかし小松は吸血鬼となった今でも身体的な変化はない。
ココには見えるが、それはココだから問題ないレベルなのであって、一般人には闇の中と変わらないだろう。
小松が夜目がきくようになった等という話は聞いていない。
なのに小松はまるで見えているかのように明かりもない部屋の家具を避け、真っすぐココの元へ近づいてくる。
近づいてくる小松はココを見ていない。
どうして小松くんは焦点が合ってないんだ・・・?
どうして足音や気配がこんなに希薄なんだ・・・?
「・・・小松くん?」
ビクリ
小松の身体が僅かに強張った。
「一体どうし----・・・っ?!」
「 ガァッ!」
唐突に小松がココめがけて襲い掛かってきた。
ソファーに座っていたのが災いか、丁度小松が立っていると容易に狙える位置にココはいた。
ココの肩に手を置くと、押さえつけて首もとに食らい付く。
「小松君!?」
咄嗟に腕を振り払い、額を押さえた。
ガクリと小松の首が仰向く。
しかしむかってくる力自体は弱まる事もない。
「クッ…!」
小さな体躯からは想像出来ないほどの力だ。
力負けしないようにするにはかなりの膂力が必要だった。
ココでなければ危なかっただろう。
「がっ…ぁ…っ!」
尚も小松は牙を剥き、よだれを滴らせながらココの腕に抵抗する。
生暖かい息が頬にかかり、ココはゾッと背筋をあわ立たせた。
「しっかりするんだ!ボクが分かるかっ!?」
ココに向かってくる小松はプルプルと細かく震えている。
全力で向かってきているのか?
「さ…ぃ…」
「え?」
違う。
「ごめ…な、さい…」
震えている小松は全力で戦っていた。
己の中の吸血本能を少しでも抑えようと抵抗していたのだ。
それでも、その理性を上回る化け物の力。
「小松君…」
「ァッ…し、て…殺、して、下さ、い…!」
獣のような叫びに交じる、小松の悲痛な願い。
ココは思わず目を見開いた。
小松は今、本能に屈しようとしている。
いや、全力で抵抗してもしきれないから、ココを傷つけるくらいなら、と小松は言うのだ。
だが、実際ココの血を吸って死ぬのはココではなく小松の方だ。
手で触れただけで火傷するのだ。
飲んで吸収しようとすれば、舌や喉が焼けるくらいじゃすまないだろう。
やはり唾液では無理があったか。
血液から離され、吸血鬼化が進んだか?
それとも…
「お腹、減ってるの?」
内心の焦りは出さず、極力平静に問う。
「は、い…」
じわり、とココの掌が濡れた。
泣いているのだ。
吸血鬼化と言うより、飢えを限界まで我慢したがゆえの吸血衝動らしい。
今日・・・いや、昨日の朝からなけなしの栄養も摂取していない状態で、日中外を歩き回り、更には宿屋でいつも以上に働いた。
思えば昨夜は小松の顔色は優れなかったかもしれない。
あまり小松の体調を慮ってやれなかった事を今更ながらに悔いた。
「宿屋は・・・村の人達は・・・行商人の人たちも無事かい?」
「気分が悪いと言ったら・・・帰してくれましたので・・」
ココはほっと息をついた。
体が本能に突き動かされていても、心は常日頃の小松のままだ。
このままでは危ないと思ったからこそ、小松は一人で戻ってきた。
「…ここまで我慢しなくても、兆候はあったはずだ。どうして言わなかったんだい?」
昨夜小松の方から申し出てくれれば、ココにも対応出来たかもしれない。
そしたらこんな事にはならなかったのに。
「だって…だって言ったらココさん、また血を用意しようとするでしょう?!」
「それは…」
生きていく為なのだ。
人間だって生きていく為に動物を殺し、肉を食べる。
ココは人間を直接害さない限り、小松に食事を提供すると約束したのだ。
唾液で駄目ならば、やはり血液を準備すると言ったのもココだ。
「僕は嫌だったんです…!あんなのを飲むのもっ!ココさんがボクの為に血を用意するのもっ!」
「…小松く」
「…ココさんのキスだけで生きていけたら良かったのに…!ふっ…ぐっ…」
「っ…!」
なんて事を言ってくれるんだ。
もうココの掌は涙とも鼻水ともしれないものでグチョグチョだった。
けれどそんな事は気にもならないくらいの衝撃がココを襲っていた。
自分の掌が小松の目を覆っていて助かった。
きっと今の自分の顔は、小松に見せられないものになっているだろうから。
今手元に血液製剤のカプセルはない。
どうせ小松は飲まないだろうと踏んで、新たに手に入れる事をしなかった。
必要と感じた時に取り寄せれば良い。
そう思っていたが、溶かした状態でなければ日持ちするものなのだ。
予備を持っていれば良かったかと後悔する。
今小松に必要なのは栄養だった。
最初の勢いこそ和らいだものの、今でもココは一般人に対して使う力ではない程の膂力を駆使して小松の抵抗を封じている。
こんな状態の小松を放置して栄養となる血液製剤を調達する訳にもいかない。
なにより時間がかかり過ぎる。
当然ながら小松を連れて外に出れるはずもなく。
すぐ用意出来そうと言えば血液製剤ではなく、村人の血液。
小松が飲む筈もない。
応急処置としてのキスすら今は危険だ。
あまりにがっつきすぎてココの唇や舌を傷つけようものなら、弱っている小松に更にダメージを与える事になる。
そしてやはり唾液では薄く、栄養にならない訳ではないが、足りないのだ。
毎日のキスは、小松にとっては理性を失わないギリギリの補給状態だったのかもしれない。
まさかこんなに危ういバランスに立っているとは思ってもいなかった。
一日も持たないとは。
以前のようにベッドに縛り付けて、血液を飲まないようなら直接体内に注射でもして体内に取り込ませるか…?
でもやはり死にたいと言う小松を一人にする訳には…
考えるココには、既に小松を殺すという選択肢は存在しなかった。